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2020年2月6日掲載

吉本興業


吉本興業を知らない人はいないだろう。

本社のあるなんばグランド花月(写真)は日本の笑いのメッカともいうべき存在で、その歴史は古い。

もちろん今も明石家さんま、ダウンタウンを始め、吉本の所属芸人をテレビで見ない日はない。

その吉本興業と私には浅からぬ縁がある。

入ろうとしたことがあるのだ。
芸人ではなく、社員として。

話は40年前にさかのぼる。

大学卒業を控えていた当時のぼくは、顔はともかく井上陽水みたいになりたくて、ギターを抱えてはライブハウスをうろちょろして、出演料の代わりにギターの弦をもらったりしながら歌を歌っていた。
バンド名はニンジン(二人組だから)であった。

これで飯が食えたら世話はないが、世の中そこまで甘くない。
おまけに就活も後半戦に差し掛かっていてぼくには時間がない。

もたもたしていたら親父に間違いなく家業に引きずり込まれる。

そこから逃れるためには説得力の乏しいミュージシャンではなく、
うそでもちゃんとした会社に席を置く必要があったのだ。

あせったぼくは会社を調べまくった。
条件はただひとつ。
上場会社であるということだけだ。

小さい会社をこまめに調べている時間はない。
上場会社に的を絞って探すことにした。

大学では経済学部に席を置いていたが、ほとんど行った記憶がない。
学問の延長線上にはなんの取り柄もなかった。

持っていたのはせっせと作り貯めた甘ったるい作詞のノートだけだ。
こんなもんもってどこの会社へ行けというのだ。

手札の無さにに落ち込んでいたぼくはあることを思い出した。

あれがある!

実は作詞の傍ら密かに漫才の台本を書いていたのだ。

こんなものを持って行って相手にしてくれるのはあそこしかない。
おまけに小さいながらも大阪証券取引所に上場している。

漫才の台本の束を抱えたぼくは当時心斎橋にあった吉本興業本社に向かうことにした。

後にそこは心斎橋2丁目劇場という若手漫才師たち専用の劇場に改装され、そこからダウンタウンが登場し、お笑い好きの若者の人気スポットになるのだが、当時は薄暗いうえに天井が低く、二色刷のいとしこいしやかしまし娘のポスターがそこここに貼られた組事務所のようなところだった。

応対してくれたのは中邑(なかむら部長、後の社長)と言う人で、小っこい組の若頭みたいな感じの人だった。

古ぼけた応接テーブルに向かい合ったぼくに、「で君、こんなとこに入ってなにがしたいねん?」と言われた。

当時人気者であったやすしきよしやカウスボタン、Wヤングをイメージして作った自信作を鞄から出しながら「吉本さんで漫才の台本作家をやらせてください」とぼくは言った。

ぼくの手書きの台本ををパラパラめくってみながら
「なかなかオモロイやんけ」と言った部長は「けど、吉本は漫才作家なんか募集してへんで。そんなに作家になりたかったら新野新を紹介したるから、弟子にしてもらい」

新野新さんというのは当時売れっ子の放送作家でぼくもよく知っていたが、なんかオカマみたいなナヨナヨしたおっさんで、生理的に受け付けなかったので丁重にお断りした。
「新野新のとこになんか行ったら、上場企業どころか親方1人、弟子1人の零細企業に就職することになってしまう」

新野新から逃れたい一心で「もう台本なんかどうでもいいので、なんとか吉本に入れてもらえませんか?」とお願いすると
「全然かまへんけど仕事は芸人のマネージャーしかないで」と言われた。

マネージャーかぁ。

昨今世間を賑わせている芸人の問題で、吉本の社長や副社長が記者会見でしどろもどろの釈明をしている映像を見た人も多いと思う。彼らは例外なくマネージャー出身だ。
もしぼくが「それでもいいです」と吉本に入っていたら間違いなくマネージャー → 社長になってた。

でも当時のぼくには芸人のマネージャーになる気などさらさらなくて、結局吉本を後にしたのだった。

あれから40年。

吉本の社長になんてならなくて本当によかったとつくづく思う。
なってたら記者会見させられてた。

そりゃUSSの社長のほうが楽しいに決まってる。

負け惜しみじゃなく・・・。(涙)

 

教訓:40年後のことなんか誰にもわからない。でも40年後は必ず来る。

ということで、よかったら若い頃ぼくが笑い転げたWヤングの漫才みてちょうだい。

今の漫才面白いけど昔の漫才もオモロかった。 ←Wヤングの漫才はココをクリック

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